2010年5月19日水曜日

前へ一歩出る


前へ一歩出ると楽になる。

子供の頃から今まで何度も一歩手前でもじもじして踏み出せず堂々巡りをして苦しい思いをしたことがある。

小学校低学年のころに近所の友達の家に行き、裏口の扉の前でさんざん逡巡して、けっきょく家に帰ってしまったことがある。たぶん約束していなくて、でも遊びたいと思って、家から来たのだろうと思う。その友達の家の裏口の白いペンキの塗られた古びた戸のイメージがいまだに瞼に浮かぶ。実際どのくらいの時間、立ち尽くしていたのかは分からない。ほんの何十秒だったのか、数十分もなのか。でも、その時の私には無限に長い感じがした。

ちょっとした行き違いが心に引っかかって、喋りにくくなった同僚に声を掛けるのをためらう。小さなことなのだけど、それが妙に印象に覆いかぶさって、ちょうど仕事も忙しいし、相手も忙しそうにしているから、と自分にする言い訳はたくさんあって、時間が過ぎてゆく。

気に掛かる仕事を持ちつつ、また連絡の大事なメールを待ちつつ、少し長い休みに入ってしまって、事態が悪くなっていないといいが、と思いながら出勤する月曜日、ブルーだ。

そんな時、いまの自分をちょっと横におく。自分の思考、ためらい、慮り、プライド、羞恥心、怒り、思惑、仕事、体調、何もかも、今の自分というものを、横におく。すべてを置いて、前へ一歩出る。

電話をかける。声をかける。近づいて顔を見合わせる。手をあげる。メールを書く。入り口に踏み込む。ドアを叩く。職場に出て机に座る。挨拶をする。前へ一歩足を踏み出す。

ほとんどの場合、拍子抜けするぐらい簡単に事が進む。上手くいかない時も、一歩後ろでもじもじしていたころに比べるとずっと楽だと感じる。

だけどまた、たぶん「もじもじ」してしまうんだろうなぁ。未来の自分にエール。

2010年5月9日日曜日

『「お客様」がやかましい』感想

『「お客様」がやかましい』ちくまプリマー新書 森 真一

森さん、あいかわらず見事、「あ、まさにそう」と感じる一冊だ。わかりやすい本だけれど、問題の根深さには目が眩む。そのため、ところどころ読むのが辛くなった。

昔はデパートや、気取ったレストランでしか聞かなかった「お客様」という呼び方が、普通になっている。100円のハンバーガーを買っても、105円の野菜ジュースを買っても、「お客様」である。この「お客様至上主義」の現状と、そのクリティカルな悪影響を語る本だ。

ただ、この本でも取り上げられていて、ネットでも時々見かける次の意見にはちょっと異論がある。それは、海外だと日本のような馬鹿丁寧な顧客対応はしないし、それで気にならない、という話だ。この話の前段、日本のようなバカ丁寧さはない、には同意、しかし後段の「気にならない」には一部反対だ。

まず、ヨーロッパではあまり気にならない、というのは確かだ。それなりに金を出す店では、それなりの対応をしてくれる。スーパーマーケットに行くと、全体に事務的な対応をされる。また個人商店に行けば、人懐っこい対応をされることも多い。ドイツ、スイス、オーストリア、イタリアなど、お国柄で多少違うが、まぁバランスの取れた対応と感じることが多い。日本での対応に慣れていると多少素っ気ない感じはするが、まぁ不快ではない。

しかし、アメリカの対応は酷いと思う。素っ気ないとか、事務的というレベルではなく、ぞんざいだ。時に乱暴に近い。私はニューヨークしかしらないので,他の街は違うのかもしれないが。街の商店などで買い物をすると、何か嫌な事でもあったのか、というような対応に何度も出会う。実際彼ら・彼女らは嫌な目にあっているのかもしれない。もちろん高級イタリアンレストランなど、それなりに金を出す店に行けば対応は違う。しかし、このドライな感じは、日本人の私にとって、けっこう寂しい感じがする。

EUは統合が進むにつれて、どんどん変わっているので、いずれはヨーロッパもアメリカのようになるのだろうか。そうなら寂しいと思う。

そして、実は日本のチェーン店などでの、口だけ丁寧な対応が彷彿とさせるのは、アメリカのぞんざいな対応だ。口先だけの丁寧さは、次の瞬間に殴られるかもしれない、というような危うい人間関係を感じる。

私は、相手とのやり取り、ちょっとした修正、確認、挨拶、表情、仕草などを通じて、相手の人となり、状態を知る。そして、そのやり取りを通じて、少なくとも次の瞬間に、ぶち切れたりはしないと安心する。

しかし口先だけの丁寧な対応、マニュアル通りの台詞を繰り返す人物からは、そういった状態情報を得ることができない。だから不安である。不安なままである。

みんな急いでいる。何かに向かって、一分一秒を急いでいる。無駄なやり取りで「生産性を下げ」ている暇はない。エンデの『モモ』を思い出すね。